本文
本記事では宇野常寛『庭の話』を読んでいこうと思う。その中で気になった部分を引用しつつ、気になる部分を引用しながら書いていく。
書いていく中で、それぞれの章の要約ができたので記事の後半に一応載せておくけれど、未読の人が要約だけ読んでも良いようにはなっていないと思う。どちらかと言えば『庭の話』の著者本人がnoteに要約を書いているので未読の人はこちらが参考になるだろう。
SNSによる動員
この新しい戦争のかたちが証明するように、今日の人類社会はインターネット上で、Facebookの、Instagramの、X(Twitter)のプラットフォーム上で展開されているユーザー間の情報発信による相互評価の連鎖と、その結果としての世論形成が支配的な力をもっている。それはいわば、すべてのプレイヤーが参加する相互評価のゲームにほかならない。今日の情報環境において、あらゆるユーザーは受信者であると同時に潜在的な発言者だ。そしてこのときユーザーには自己の発信に他のユーザーから反応を得るインセンティブが多かれ少なかれ発生する。つまり誰もが他のユーザーからのリアクションを潜在的に期待している。たとえそれが名もなき1アカウントであったとしても、いや、名もなき1アカウントだからこそ自分の投稿が不特定多数に評価されることは、一時的にでも強い快楽を与える。そして各プラットフォームは人間が情報発信によるインスタントな承認の中毒に陥っていることを経験的に知っている。そして「Like」や「Repost」というかたちでその承認を可視化することで、より人びとをその快楽の虜にした。そして今日では人類が覚えた新しい麻薬の効果を用いて政治的、経済的な「動員」をおこなうことこそをプロバガンダと、あるいは広報と呼ぶのだ。
宇野常寛『庭の話』p.20
「動員」について、直近で読んだところで言えば、大塚英志の『「暮し」のファシズム ――戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』が興味深かった。
コロナ禍においてニューノーマルという言葉が囁かれ、三密やリモートワークを始め、人々に感染を避けさせるための方法が推奨されたことは記憶に新しいが、ニューノーマルという言い回しやトップダウンで人々の生活様式を変えようとする手法が、かつて世界大戦が行われた時代に新生活体制が進められ、「ぜいたくは敵だ」などのスローガンを掲げて人々が動員されていった状況と似通っている、というような話なのだが、冒頭から下記のように書かれている。
ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。何故なら、それらの話は近衛新体制の時代、「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。
それだけではない。「新しい生活様式」や「新しい日常」などと、日々の暮らしのあり方について為政者が「新しさ」を求め、社会全体がそれに積極的に従う様が、かつての戦時下を彷彿とさせるのだ。
大塚英志『「暮し」のファシズム ――戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』p.12
当時も政府側から民衆に対してトップダウンに行う動員はあり、現在はそれに加えて、SNSにおいて誰もが発信者として行う発言、それを用いて世論を形成するという半トップダウン半ボトムアップ的な動員もある。
人はどうしたって少なからずは動員されてしまうものであると思うが、動員されていると思わないうちに動員されてしまうことの危うさはあるだろう。しかも個人単位で言えば、単に相互承認を求めてポストした内容が、世論形成に使われているのだから。
「日常」や「生活」などの一見政治的に見えない言葉が実は政治的である、というのはハッとさせられる部分だったし、「新しい」という形容詞も魅力的に見えてしまう魔法の言葉だろう。しかし、新しさにばかり気を取られていると、目の前の事物を見逃してしまう。
新しさというのは基本的には楽しいものだと思う。新しいものに目がないというのは、納得できることなのだが、「これは新しいよ」と言って渡されたものより、なんの変哲もないもの(道端の雑草など)に自分で新しさを見出した時の方が楽しいと思うし、そうした方向性に向かうのが『庭の話』だろう。
だが、Xはもちろん、Tiktokやyoutube shortsでも、スワイプすればするだけ新しい情報が表示され、見続けているうちに1時間が経ってしまっていたという経験もある。ある意味、新商品が永遠に出続けているようなものだが、生活用品や娯楽品などの商品に比べてあまりにも膨大な量が求めた分だけその場で即時的に提供されてしまう。
「即時性」について、Real Soundというカルチャーメディアにて福嶋亮大が連載している『メディアが人間である』で、メディア美学研究者のアンナ・コーンブルーを引きつつ語られていた部分が興味深かった。引用したいところだけれど、連載第4回目の記事の内容なので、部分的に引用してもかなり文脈が切れてしまう。なので是非下記の第1回から読んでいただきたい。
【新連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第1回:21世紀の美学に向けて
また、同じメディアで宇野常寛との対談記事もあり、『庭の話』に繋がっていくものとして読むことができる。
宇野常寛×福嶋亮大が語る、Web3と批評的言説のこれから 「人類社会の“時差”を意識することが重要」
即時的に新しさが目の前に次々と現れ、それに気を取られてしまうというのは注意経済(アテンションエコノミー)と直結する話でもあるだろう。それで言えば、ジェニー・オデルの『何もしない』は注意経済に対するスタンスを提示する本だった。つまり、注意経済によって私たちが本来向けるべき、あるいは向けたいはずの注意の方向から、強引に目を逸らさせられてしまうような状態をどう拒絶し、自ら注意を向けるか、だ。第四章の「注意を向ける練習」では、こんなことが書かれている。
私にとって唯一「デザインする」のに値する習慣とは、習慣的な理解の仕方に疑問を投げかける習慣であり、芸術家、作家、音楽家はそのような習慣を身につける手助けをしている。
ジェニー・オデル『何もしない』p.243
ここで言う習慣というのは週末によくサッカーをやってます、というようなことではなく、歩くことや見ること、聞くことなど、私たちがほとんど無意識のうちに行ってしまうような動作であって、この記事を読むときに左から右へ、上から下に向かって読むことを違和感なく行えてしまうようなことである。こうした日常動作はほとんど無意識に行われ、習慣化されてなかなか意識することができない。「普通」という言葉に対してその危うさを語る、という流行りがいつだったかにあった気がするが、習慣や常識も同じカテゴリだろう。(しかしそんな議論もSNSのゲームに飲まれた?)
二重のゲームの階層性
承認の快楽を得るというゲーム。それに参加している人は自身が参加していることにすら気が付いていない可能性も高いだろう。
グローバリゼーションと情報化は、国家(ローカルな物語)よりも大きな市場(グローバルなゲーム)をもたらした。このあたらしい「境界のない世界」に対応した Anywhere な人びとは、個人の力(を用いた経済的なアプローチ)でグローバルな資本主義というゲームをプレイする(直接体験する)。対して対応できないSomewhere な人びとはローカルな相互評価のゲームをプレイする。それは他の誰かに認められること、つまり承認を獲得するためのゲームだ。そしてこの相互評価による承認の獲得のゲームのなかで、もっとも低コストで強い承認を得られる人気のプレイスタイルが「民主主義」なのだ。民主主義による政治への参加は画面のなかの誰かを「推す」ことで、擬似的に自己実現を果たす。集団の一部として代表を選ぶことで、他人の演じる国家の歴史という物語に感情移入する。そしてその実現には社会的な「正義」が保証されているために、人びとは迷うことなくそれにコミットすることができ、そして実現したときの快楽もきわめて大きいのだ。
宇野常寛『庭の話』p.28
ゲームの二重構造。ここでは最も人気のプレイスタイルとして政治の面が取り上げられているが、そうではないものもあるだろうか。例えば「画面のなかの誰かを「推す」こと」という部分は、いわゆる推し活の方へも適応できるだろうか。推し活とまでは言わずとも、応援している人がいるくらいでもいい。その上で、ライブストリーミングについて考えてみたい。
youtubeやtwitchなどの配信プラットフォーム(これもプラットフォームだ)において、視聴者は好きな配信者を見に行くわけであるが、例えば配信者がフロムゲーのような難易度の高いゲームをしているときに、それをクリアした瞬間に一緒になって喜ぶ(あるいは喜びを感じる)、というのも擬似的な自己実現に似ていないだろうか。推している、あるいは応援している人がバズって、「ほらやっぱりこの人は面白いんだよ!」という気持ちを抱くなど。
つまり、政治それ自体ではない別の場所でも、引用で言われるようなゲームがそれなりに行われていると思うのである。だから政治に興味がないのだとまでは言えないが、それによって政治そのものに辿り着きにくくなっている面はあるのかもしれない。
ところで、anywhereな人々の市場のゲームとsomewhereな人々のローカルなゲームという構図が、配信者と視聴者といったような構図にも擬似的に転用されうるのであれば、もしかするとsomewhereな人々は、自分よりもanywhereに近いと考えるsomewhereな人々が、擬似anywhereな人々に見えていて感情移入しているのではないか、とも思えてくる。世界は二分されているとはいうものの、二分された世界(一般的にいう世界)の中にもまた界隈とでも言い換えられるような世界(界隈的な世界)があり、そうした階層構造があるではないか、と思う。
そうしてどんどん世界を縮小していき、どのサイズの世界でも良いからなんとかして自分が承認や評価を得られやすいゲームの場を探っていく、という形になってくる。その時、自分のサイズの世界より大きい世界はほとんど無視されるのではないだろうか。
また、世界を縮小していくことで擬似anywhereな人々とsomewhereな人々の差はそれほど大きくなくなっていき、そこに至ってはもはや、擬似anywhereな人々への憧れあるいは嫉妬さえ生まれ始める。youtuberに対して「遊んでいるだけでお金がもらえる」と言ったような話は嫉妬であって、そう言う人は、そのyoutuberと自分との距離がそんなに離れていないと思っているからこそ嫉妬しているのではないだろうか。そして、そうした嫉妬がまた更に評価や承認のゲームに没入させていく。
二元論の画一化
このとき、人びとは情報の送受信になるべく時間的なコストを割かない。複雑な問題そのもの、事物そのものよりも、多くの場合二項対立に単純化された問題についてのコミュニケーションをするように、つまりタイムラインの潮目だけを読むようになる。他のプレイヤーと同じタイミングで、同じ話題に言及することが、このゲームで効率的に承認を獲得するためには有効だからだ。こうして「速さ」が求められていく。そしてその結果、閉じたネットワークの内部でシェアされる情報は多様性を失っていく。もちろん、多様性を社会に実装せよという声そのものは年々拡大している。ユーザー数の増加に比例して、発信される情報そのものも多様化している。
しかしどれだけ多くの人びとが発言力をもち、発信される情報は多様化しても、この相互評価のゲームのなかでシェアされる話題は画一化していくのだ。
宇野常寛『庭の話』p.38-39
Xやyoutube、tiktokはインプレッションから収益を得ることもできるし、今日では如何にして他ユーザーの注意を引くかというのが前景化している。著者も言及しているように、Xのおすすめタブのタイムラインに並ぶポストには、バズらせ用の定型文のようなもので書かれたポストがいくらでも並んでいるし、あえて的外れな事を言って反応を誘うようなポストも多くある。
そうしたポストの「多くの場合二項対立に単純化された問題についてのコミュニケーションをする」という点で言えば、いわゆる「主語がでかい」というのが批判を誘う代表的なポストではないだろうか。でかい主語として機能するのは既に二項対立としてよく知られているものの片方のことであり、この二元論で語る構図が画一化しているわけである。『動いている庭』の話で出てくる一つの生態系によって支配されてしまった状態に関連付けて、プラットフォームを支配する一つの生態系とは相互評価のゲームだと述べられているが、更にその根っこで支配しているのは二元論だと言ってもいいと思う。
自己解体とアイデンティティ
そう、今日の人類は、「花」的なコミュニケーションのことを忘れている。いま、人類は情報技術に支援されて人間間の相互評価のゲームに中毒的に埋没し、人間外の事物とコミュニケーションすることを忘れてしまっているのではないか。これまでとは比較にならないほど速く、低廉にアクセスできるようになった同種とのコミュニケーションに埋没し、人間外の事物とのコミュニケーションのことを、置き去りにしはじめているのではないか。自己が何かを「する」、承認を獲得し自分が何者「である」かを確認「する」、ことでの自己保存の快楽の中毒になり、事物に心身を侵「される」快楽を、自己解体の快楽を、そして自己解体を経由することで初めて実現する自己保存の快楽を忘れてはいないか。
宇野常寛『庭の話』p.56
自己解体にも快楽があるというのは、あまりにも重要だと思う。この自己をアイデンティティに置き換えて考えてみれば、一般的にアイデンティティとは保つものである、という雰囲気があって、解体しようとは思わないのではないか。だからこそ自己保存ばかりになってしまうし、現状「あなたは何者ですか」という問いに答えるためには、他者から貰った承認や評価の提示が必要である、という風潮がある。
漫画『左ききのエレン』の5話で主人公の光一が「何かにならなきゃ、退屈で生きていけねぇよ」というようなことを言っていたが、何かになることが目的化するというのは、評価や承認を受けることが目的化することと同じだろう。今の社会は我々を何者かにしたがるというのは、『庭の話』でも言及されていたことだ。しかしそれではゲームを抜け出せない。
世界に触れている手触りとインティマシーをもっと引き付けたい
鞍田のこの議論を私なりの言葉で噛み砕いてみよう。ここで問われているのは、事物を通じて人間と世界とのつながりが実感できること、だ。作り手の存在を不可視にする工業製品に対し職人の手仕事によってつくられた民藝には、ある一人の人間と世界とのかかわりが視覚的にも、触覚的にも痕跡として確かに残っている。しかしそれは鑑賞を目的とした表現ではなく、あくまで用いられるものとしてつくられている。そのため民藝を手にした人びとはそれを用いることによって、職人がそれを作り上げたときと同じように世界に触れることができる。やがてそうして使われたものが、自分の手に馴染むことがある。このときそれを作り上げた職人が名もなき存在であるからこそ、使用者はそれを自分の手足の延長だと感じることができる。こうしてそれを用いる人びとはその道具たちに「インティマシー」を感じることができる。
この人間外の事物がその人の手に馴染むことで発生するインティマシーは、自分が世界に確かにかかわりうるという実感を、その使用者にもたらす。河井が京都の集落の家屋に感じたのも、おそらくはそれだ。
それが工業製品ではない手仕事であること、にもかかわらず作家の名前が記されているものではなく無名の職人の手によるものであること。そしてそれを用いて暮らすこと。それが手に「馴染む」こと。その結果として、世界に素手で触れている感覚――鞍田の言葉を借りれば「生の実感」――が人間にもたらされるのだ。
宇野常寛『庭の話』p.132
前章で確認したように「ムジナの庭」を支える事物たちのなかで、大きな存在感を示しているのは庭の植物を用いた「手仕事」たちだ。そう、彼ら/彼女らは、ただ事物を「用いて」いたのではない。彼ら/彼女らは「手仕事」によって、事物を「つくる」ことをしていたのだ。なぜ「つくる」という行為がここで選ばれているのか。そしてこの「つくる」という行為が、人間と世界とをどう結びうるのかをここでは考えてみたい。
宇野常寛『庭の話』p.133
ここまで紹介した井庭の議論を本書の問題意識に接続しよう。井庭は鞍田の議論を参照し、人間と世界とのつながりを感じさせる事物――インティマシーを発揮する事物――に注目する。このインティマシーを発揮する事物は、「民藝」のように人間と世界との関係が視覚的、触覚的に表れているものでなくてはいけない。そして同時にそれはそれを制作した人間の自意識が感じられるものであってはいけない。他の誰かの自意識を感じさせる事物は、それを用いる人間の「手に馴染む」ことがなく、世界とのつながりを感じさせないからだ。前者をクリアしないために工業製品は、後者をクリアしないために美術品はそれぞれインティマシーを発揮することはない。
宇野常寛『庭の話』p.138
世界に素手で触れている感覚、これはsomewhereな人々が求めているものだった。それがインティマシーを発揮する事物にある、と。しかし、世界に素手で触れている感覚というのも、手に馴染むというのも、インティマシーも、その言葉自体がどこか実感からほど遠く聞こえないだろうか。もう少しここを実感しやすい領域まで近づけたい。
一体、私たちは何を制作するのだろう。結論から言えば、それは事物(作品)ではない。私が制作しているのは私自身なのではないだろうか。世界を変化させるのではなく、私自身を変化させる。そもそも、制作とは自己解体であり、変身であり、動物になることである。それは世界というより私の変化だ。世界の変化は相対的に私の変化と同じだが、こちらの方が近く聞こえないだろうか。
私の変化とは何かについて、それは常識だと思っていたことが常識ではなかったとか、自らの習慣的な無意識を自覚できたとかで一旦はいいと思う。個人的にそうした変化は、ミステリ小説でどんでん返しを食らった時と似たような感覚があり、快楽がある。
アーレントの人間の条件に関する議論の中で、現在は制作が労働や行為になりやすい(そちらに傾かないと実感しづらい)とあったが、それは制作ではなく作品が重視されがちであるということだ。しかしあくまでも、重視したいのは制作である。だからこそ、制作を切り上げた時に外在化される作品のような物や事に重心を預けないためにも、作品=私であるとして、目に見える形にしないことを選んでみたいのである。例えば、ひとりあそびに関する所でランニングの話があったが、運動は作品を生まない制作の一つなのではないかとも思うのだ。勿論ここで重要なのは、著者も言及しているように目的を持たないことである。それは、目的=作品だからだ。
それでも制作の後に何か作品的なものができてしまうことも多いだろう。しかし、それを作品と呼ぶ必要はない。それは私が私を制作していた痕跡だと思う方がいい。
引用にも現れる痕跡についても見ておこう。
「職人の手仕事によってつくられた民藝には、ある一人の人間と世界とのかかわりが視覚的にも、触覚的にも痕跡として確かに残っている」という部分は、リバースエンジニアリング的な観点に繋げられる。リバースエンジニアリングとは、機械を分解し、その機械の構造を分析することである。
その事物に痕跡が残っていて、かつそれに手触りを感じるという時に起こっているのは、リバースエンジニアリング的な感覚ではないだろうか。手に馴染む、という感覚が得られた時、おそらくその道具の使用者はまるで自らがそれを作ったのだという風に感じるほど、その道具が作られていく制作の内側を感触している。つまり、使用者≒制作者なのである。
そしてこれは、例えば美術品にも同じことが言える。展覧会に行くと、人はしばしば作品を「見て」しまう。しかしそこで制作者として立ち向かうとき、人は目の前の作品に対してリバースエンジニアリングすることで、その作品の制作プロセスを私が私自身を制作することに使うのだ。美術品は時に私たちに私たちの習慣を疑わせる、あるいは習慣を自覚させるというのは、先に引いたジェニー・オデルが言っていたことだが、その時起こっているのはやはり、世界の変化というよりも、私の変化だろう。民藝(品)はそれに触れることができる、というのが大きいからこそ『庭の話』の例としてはぴったりなものになっている。一方で、インティマシーの議論において美術品が一旦退けられるのは、制度の面が強く、大抵それに触れられないからだが、本来そうしたカテゴリには左右されないはずである。
ちなみに、石川九楊『書とはどういう芸術か』の第一章「書とは筆蝕の芸術である」における、筆蝕とは何か、についての部分がリバースエンジニアリングの類例として分かりやすい。
漫画だってその書きぶりを問題にしなければ真の理解に達しないのだから、書においてはさらのことである。「肉筆」の「書きぶり」の中に書の美を云々する何かが書き込まれている。 その「書きぶり」は文字の「造形」や「線」の姿と考えて済ますわけにはいかない。この「書きぶり」というものの発生を根源的につかむ必要がある。それを明確にとらえれば、書の美の生ずる首根っこをつかまえることになる。「書きぶり」とは作者の書字する姿ではない。また、定着された書字の姿=造形でもない。それは作者が手にした筆記具の尖端と紙との関係に生じる劇である。その劇をここでは、「筆蝕」と名づけることにする。「書きぶり」である筆蝕は、筆記具の尖端と紙の関係に生じ、筆蝕は二つの要素から成り立つ。 書き手から筆尖に加えられる力と対象から反撥する力を筆尖から逆に感じながら書き進む関係に生じる摩擦、筆触(触)が第一。目をつむっても文字が書けないわけではないが――実際に川端康成が試みたことで有名になった「合目の書」という例もある――、通常その筆触は目で見ることによって絶えず微調整され、制御されているから、その墨跡(蝕)を視認することが第二。第一の「触」と第二の「蝕」の両者を併せた概念がここでいう「筆蝕」である。
この「触」と「蝕」、つまり筆蝕の別名が「書きぶり」である。ほんとうの意味で書を見、読むということは、作者が手にした筆記具の尖端と紙とが接触し、離れつつ書き進まれているその過程である筆蝕を見、読んでいるわけである。
石川九楊『書とはどういう芸術か』p.33
「作者が手にした筆記具の尖端と紙とが接触し、離れつつ書き進まれているその過程である筆蝕を見、読んでいる」というのはリバースエンジニアリング的な目線の例として分かりやすくはないだろうか。リバースエンジニアリングすることの意義は、何も芸術に限定されたものではないし、そもそも機械周りの用語だ。身の回りを見渡してみれば、そこには多くのブラックボックスがある。電子レンジは一体どういう作りをしているのだろうか、など。
私たちが普段から使用する物の中には、どういう仕組みかはよく分からないが、このボタンを押せば(原因)、ご飯を温められる(結果)というように、過程を知らずとも結果が得られるものが多い。そこで私たちは制作を見逃している。目の前にあるものが、例えば絵画であるような場合には、リバースエンジニアリングするには初めはそれなりの知識や経験が必要だろうけれど、むしろその瞬間さえも制作の契機である。目の前のものがリバースエンジニアリング出来ず、でもしてみたいという思いの狭間で満足しなくなった状態、つまり浪費の失敗と同じだ。リバースエンジニアリングは、私たちが事物と出会い、変身するためにも、制作は向かうためにも、一つの方法として有効だと思う。
生成AIによって絵も音楽も作れるという時、失われているのは、端的に言って私たちが絵を描き、音楽を作る機会ではないだろうか。とはいえ、そこでできた絵や音楽を使ってゲームを制作するということも勿論出来るし、プロンプトを書くという行為自体を制作と捉えることもできる。となればやはり必要なのは、結果だけを得て満足しないこと、あるいは満足できなくなることだろう。やはり、浪費の失敗のことだ。
欲望の問題、習慣としての二元論
しかし井庭も述べていることだが創造社会の実現のためには、まだいくつかのピースが不足している。
それは、端的に述べれば欲望の問題だ。Web2.0が証明したのは、人間はそれほど事物を創り上げることに関心はなく、ほとんどの人間は承認を交換する器官にすぎないという身も蓋もない現実だった。仮に共創ギルドによってパターン・ランゲージが発展し、今日とは比べものにならないほど事物の制作が簡易になったとき、人びとは次々と事物の制作に参入していくのだろうか?おそらく、それは難しい。もちろん、それぞれの分野において、参入してくるクリエイターの母数を増やすことは大いに期待できるし、それだけでも十分にすばらしい未来には違いない。しかし、井庭は大衆レベルで――今日の情報社会下の相互評価のゲームと同じレベルで――それが現代人の生活に介入することを意図しているはずだ。では、そのために必要なピースはなにか。
多くの人間は、実のところ創造社会を望まない。どれだけ食べることが好きな人間でも手間暇を惜しみ自分で料理はつくらず、レビューサイトの投稿すら億劫に感じる人間は少なくない。しかしこのような「怠惰なもの喰う人びと」を巻きこめないかぎり、創造社会は到来しない。
宇野常寛『庭の話』p.141
欲望の問題と聞いて思い出すのは木岡伸夫の『邂逅の論理』だ。『庭の話』ではここからいかに動機づけられるかが探られるが、逆に今、欲望の根源はどこにあるのかについて見ていきたい。
この本で木岡は近代を欲望というキーワードから考えてみたいと前置きした上で、欲望とは何かに関する基本点として下記をあげる。
第一に、欲望は主体から客体に向けられる視線と一体である。このことは、客体の主体からの分離、したがって主客の二元論を前提する。
第二に、主体がもつ欲望の視線のもとで、客体はもっぱら操作可能な対象として扱われ、その利用を前提とする支配関係が具体化する。
第三に、欲望は欲求とは異なり、一個の主体のうちで閉じられることなく、他へと伝染する(精神分析における意味での「転移」を生じる)。 以上の三点は、すべて近代に関係する。というよりむしろ、近代の本質そのものである。
木岡伸夫『邂逅の論理』p.14
ここで語られている欲望の三つ目、欲望が他へと伝染していくというのは、放置すれば画一化するということに似ていないだろうか。そして佐伯啓思を引きつつ、近代とは「資本主義」と呼ばれる欲望開拓のメカニズムであると述べられる。
さらに木岡は、欲望と論理を結びつけて〈欲望の論理〉と呼び、以下のように述べる。
(……)詳細な検討を省いて結論的に述べるなら、ロゴス的な論理を代表する二元論的思考が、欲望の心的機制を成立せしめた元々の「原因」だということである。すなわち、上に述べたような半無意識的なふるまい、慣習の根源は、それ自体、二元論という「論理」だということである。〈欲望の論理〉が意味するのは、まず、それ自体としては必ずしも意識的・自覚的とは言えないような行動および心理の複合、およびそれらを包括する生活様式の存在である。それととともに、そういう生活様式の全体が、意識的な思考方法である二元論の社会的浸透をつうじて生み出された、という事実認識である。という次第で、二元論という「論理」と、それが直接間接に働くことによって具体化した生の形、その両方を一体と見ることから採用された言い回しが、〈欲望の論理〉なのである。
木岡伸夫『邂逅の論理』p.71
欲望の原因は二元論的思考であり、私たちの半無意識的な生活の中に働いているのは二元論である。これは普遍ではあるが、不変ではない。しかし、習慣づいた二元論はあまりにも強固である。『邂逅の論理』はこうした二元論(西洋的論理)と、龍樹をベースに山内得立が提示したテトラレンマ(東洋的論理)の両者が邂逅するための論理を探っていくというスリリングな本である。
また、庭の条件にもある「関与できるが、支配できない」ことともつながるだろう。支配が起こる場には二元論的な欲望がある、支配できないとは、そうした二元論的な欲望ではないところに軸足を置いているということだ。
私たちは二元論に浸かっている。例えば、「私は私でもあり、私でなくもある」という文章を読んで、すぐに論理的だとなるだろうか。恐らくならない。なぜなら二元論において、これは矛盾しているからだ。しかしこれはテトラレンマの4つある命題のうちの一つなのだ。
テトラレンマは下記の4つの命題を指す。
- Aである(肯定)
- 非Aである(否定)
- Aでもなく非Aでもない(肯定でもなく否定でもない)
- Aでもあり非Aでもある(肯定でもあり否定でもある)
この4つのうち三つ目と四つ目は二元論でいうところの矛盾である。そもそも、論理という言葉は通常ロジック(logic)と同義である。しかし、logicとはロゴス(logos)的な論理のことであり、二元論のことを示してしまっている。もはやこうした前提すら疑わなければならないのだ。ただ注意したいのは、西洋的論理と東洋的論理のうち、東洋的論理を採用すればいいわけではない。どちらか片方を採用すること自体が二元論だからだ。あくまで目指されるのは邂逅であり、それを辿っていくのが『邂逅の論理』だ。しかし今はひとまず、二元論以外の論理があるということ知るだけでも大きなことである。
不法侵入からの不意打ち、そして「分裂」する
國分はジル・ドゥルーズを引用し環世界の移動は事物の「不法侵入」によって発生すると考える。「不法侵入」とは、平易に述べれば人間が不意に遭遇するショックであると考えればよい。
國分はこの「不法侵入」を「待ち構える」ために、「訓練」を怠るべきではない、と説く。「訓練」なくしては、人間はすぐに別の環世界に移動してしまい、「動物になる」ことができないからだ。
宇野常寛『庭の話』p.146
このショックというのは、自身が持っている常識や習慣との落差のことだろうか。不法侵入、ドゥルーズのそれとどこまで結びつくかは分からないが、伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』の中での「不意打ち」という言葉が近いかもしれない。この本の中で「不意打ち」は「予期」や「習慣」という言葉と共にある。
まず、ヴァレリーにとって「予期」とは「起こりそうな出来事を予測すること」だけでなく、「隠された構築物の組み替えを伴うもの」だと述べられた上で、「不意打ち」が出てくる。
もっとも、私たちは普段の生活の中において、こうした予期に伴う身体的な構築物の存在をつねに意識しているわけではない。むしろほとんど意識していないといった方が正確だろう。しかしこのことは構築物が存在しないということではなく、意識せずともそうした構築物は形成されているということを意味している、とヴァレリーは言う。それはなかば習慣化した形で、私たちの世界との出会い方を調整している。つまり私たちは、意識的な予期なしに予期を行っているのである。そしてこの調整のおかげで、私たちは意識せずとも世界と円滑に出会うことができているのである。
普段は意識されないこうした構築物の存在が自覚されるのは、むしろ不意打ちのような、予期が外れる状況である。
伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』
『庭の話』に即していうならば、上記の引用における「意識せずともそうした構築物は形成されている」という部分に対応するのは、下記ではないだろうか。
こう考えることはできないだろうか。人間は事物からのコミュニケーションを受けたその時点で、実は多かれ少なかれ、「変身」してしまっている。
宇野常寛『庭の話』p.179
とすれば、不意打ちがもたらす「普段は意識されない構築物の存在が自覚される」というのは、変身しているのだという自覚ではないか。
一応、不法侵入と不意打ちにニュアンスの違いがあるとすれば、『庭の話』における不法侵入は、それが起こった時に、事物とコミュニケーションする準備が出来ていない可能性も含まれているが、不意打ちにおいては、事物とコミュニケーション出来る状態であることが前提になっているところだろうか。
そして不意打ちを食らうとき、そこには身体的な分裂が伴うという。
予期されていたのと異なる出来事に出会うことは、世界と主体のあいだの「ずれ」に出会うことである。主体は、不意を打たれた直後、すぐにこのずれに適応することはできない。それは「遅れ」の感覚である。遅れにおいて、主体は迷い、混乱し、ためらう。この迷いが二つの観念のあいだでの迷いとちがって強い抵抗感を伴うのは、それが身体的な分裂を伴うものだからである。
伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』
この分裂は、過去と現在のあいだでのわたしの分裂でもある。「わたしは自分の感覚によってーー過ぎ去った事実に結びつけられているので、わたしはわたしを引っぱり、わたしを引きずるものに抵抗しーーわたしはわたしを分裂させる」(C1, 1271)。予期による過去と現在の結びつけが狂うことは、現在じたいの混乱を意味する。「強い不意打ちはまさに現在の乱れである。目がくらんだときのように、時間が踊る」(C1, 1272)
伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(C1は『カイエ』の第一巻を示している)
このあたりの議論はヴァレリーの時間論とも絡むのだが、「わたしの分裂」という部分に注目したい。これは『庭の話』即して言えば、自己解体であり変身だ。「変身による自己解体は負担が大きい」とも述べられていたが、この引用でヴァレリーが言っていることはその負担に関する説明として読むこともできる。
制作=自己解体=変身=動物になることによって「わたしはわたしを分裂させる」。そして、自己解体を経由して自己保存するように、分裂の後で私はまた一つの私になる。この時、明らかに私は変化していると言えるだろう。
責任不在の根っこ
プラットフォーム上に自由意志は存在しない。そしてプラットフォームのユーザーたちは中動態の世界を生きている。正確には中動態の世界だからこそ発生する自由を生きている。少なくとも人間に自由意志が厳密に存在できないことを前提に、そこは設計されているのだ。そのためここでは法的な責任は常に曖昧となる。ここにおいて「契約」は長々と書かれた読む気もしなくなる文章に添えられた、同意のチェックボックスへのクリックひとつに簡略化される。これが順雑で、不愉快な手続きを可能なかぎり避けたいと考える人間の習性を利用したけっして倫理的に褒められたものではないアプローチであることは明白だ。しかし、このプラットフォーム上の「契約」の取り扱いが、情報技術が人間の自然な姿に即して形成した「中動態の世界」と人類が社会を運営するための知恵として育んできた「法」や、その基礎となる責任や契約の概念との相容れなさを体現してしまっている。私たちは先行する技術と、それが可能にした社会に対応する自由観、責任観をまだ育んでいないという問題がここには端的に露呈しているのだ。
宇野常寛『庭の話』p.170-171
中動態の世界だからこそ自由に、そして無責任に生きてしまう。中動態という名前が示す通り、中動態の世界は二元論では語らない世界だ。一方で、社会のほとんどは二元論でできている。だからこそ二元論ではないもの(=テトラレンマなど)を二元論という視点から見ると曖昧に(非論理的に)なってしまう。その結果、責任の不在である。
『邂逅の論理』にも下記の記述がある。
(……)確認のために再度要約するなら、「レンマ的論理」と「ロゴス的論理」は、異なる論理の類型として並び立つのではなく、前者のうちに後者が包摂される(テトラレンマの第一、第二レンマが、形式論理の矛盾律を表す)という仕方で、二つの論理が階型化され、もって一個の論理体系が成り立つ、という主張である。それに対して、その主張は、レンマ的論理の側に立ってロゴス的論理を統合する、という立場から行われたへ〈綜合〉にとどまるから、ロゴス的論理の側がそれを受け容れるのでないかぎり、真の総合と言えるかどうかは疑わしい、ということもすでに述べた。ところで、すでに見たとおり、四つのレンマのうちの第三レンマ(両非)、第四レンマ(両是)は、矛盾律に明確に背馳するから、これらはロゴス的論理の埒内において、「反論理」もしくは「非論理」とみなされる以外にない。つまり、山内の説く意味での「東西論理思想の綜合」は、ロゴスの立場が維持されるかぎり、言い換えればロゴス的思考を棚上げしてレンマの立場に移行するのでないかぎり、水泡に帰さざるをえない。
木岡伸夫『邂逅の論理』p.73-74
実はレンマ的論理はロゴス的論理を包摂しているのだが、ロゴス的論理側がそれを受け容れるのでないかぎり、ロゴス的論理の埒内から見て、レンマ的論理は「非論理」となってしまう。この状態が、理想的な中動態の世界や創造社会、制作へ人々を向かわせ、定着させるためのアプローチの難易度をぐんとあげているというところもあるだろう。
現状のプラットフォームに対抗できる大きな一手はないように、簡単な一発逆転の手段はない。だからこそまず、忘れていたこと、忘れさせられていたことを思い出すこと。その上で、二項対立的な思考の解消から勧めたいのである。
ジレンマはジレンマ
ギャレット・ハーディンの「コモンズの悲劇」は資源の共同利用がなかば必然的に環境劣化をもたらすことを示したものだ。より具体的には「コモンズの悲劇」とは、誰もが利用しうる資源が無秩序に利用されることによって、回復不可能な状態に陥ることだ。なぜ「悲劇」なのか。それは客観的に見ればその資源が持続可能な利用方法は明らかであるにもかかわらず、その利用者たちの合意形成に失敗した結果として「囚人のジレンマ」が発生し、結果的に多くの利用者が資源を過剰利用してそれが枯渇してしまうからだ。
宇野常寛『庭の話』p.228
囚人のジレンマとはその名の通り二元論であって、そもそもジレンマという言葉の用例が「ジレンマに陥る」くらいしか思いつかないくらいに、ジレンマはジレンマだ。コモンズの悲劇は、中動態の世界が責任の不在という形で実現してしまった状態とさほど変わらないだろう。と思っていたら、プラットフォームはコモンズの進化系だとオストロムの研究を引きつつ述べられていた。
ところで、ちらっと名前が出てくるジェイソン・ヒッケルの『資本主義の次に来る世界』という脱成長論の本があり、この本でも確かにコモンズは重視されている。もはやその対応策に賛同はできないにせよ、成長をやめる必要があるというのはその通りだとは思う。身近な例で言えば、現状いくらchatGPT等によって作業を効率化しても、企業が成長を求め続けるうちは、短縮した分の時間は別の仕事をさせられて、どこまでも利益に結びつけられるだけなのだから。
ちなみに、内容以前に気になってしまうのはこの本の帯だ。こう書かれている。
「アニミズム 対 二元論」というかつてない視点で文明を読み解き、成長を必要としない次なる社会を描く希望の書
ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』の帯
この帯文は著者が書いているものではない気がするのだが、「アニミズム 対 二元論」という構図自体が二元論になってしまっている。しかし、こう書いてしまうくらいにこの構図は一般化しているし、煽り文句として優秀ということなのだと思う。
労働の中の制作
その上でここで考えたいのはアーレント的な「労働」、つまり「生計の維持」に特化した活動のなかで、「制作」の快楽を覚えていくという可能性だ。これはそれほど特別な話ではない。労働者がその作業のなかで、事物を「制作」する快楽を知るーーこれは、労働集約化、オートメーション化が進行する以前では、よりありふれた経験だったはずで、今日においてもけっして珍しいことではないはずだ。窓を拭く「労働」がガラスの美しさを人間に覚えさせる、日々の炊事が料理の楽しさを人間に覚えさせる・・・・・・むしろ「労働」こそが人間に「制作」の快楽を覚えさせる最大の回路だったはずなのだ。
宇野常寛『庭の話』p.336
制作が労働に飲み込まれているというのは、思っている以上に強烈なものだと思っている。もし明らかに労働の中に制作を見いだせそうにないのであれば、職を変えるのも手だが、そこでサンクコストを惜しむ人も多い。
そうした話で参考になるのは、谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』だろう。そこでは、仕事を語る上でよく聞かれるキャリアデザインについて、こう述べられている。
そしてここが重要なのですが、キャリアデザインの設計主義的な発想は、この遊びの感覚を台無しにしてしまうところがあるのです。逆算思考で目的を頑強に設定して、それに最適化された活動にすることは、「遊び」を損なってしまいます。
谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』
「逆算思考で目的を頑強に設定して、それに最適化された活動をすること」で「遊び」が損なわれる。ここで言われている「遊び」を私は「制作」に近いものとして受け取っている。「遊び」という言葉にどこか「遊んでる場合じゃないんだ」という気持ちを感じるのであれば、「本気の遊び」だと思ってもらっていい。本気で遊んでいる時の夢中さや熱心さは、浪費が失敗する時のイメージに重なっている。
制作へ向かうためのロードマップを書くとしたとき、起点となるのは労働であるから、ここは時間をかけて熟考して良いポイントなのだ。これについては下記の対談も面白いのでぜひ。
なぜ「やりたいこと探し」はうまくいかないのかー谷川嘉浩×宇野常寛ー
アプローチはどこにある
(……)たとえば前述の阿部真大は現代日本の労働者のアイデンティティが、職場という共同体からの「承認」に依存しすぎていることが「やりがい搾取」などの悪質な経営を可能にしていることを指摘する。そしてその対策として「労働」の「行為」的な側面、つまり社会的な役割の再評価を主張し、そのために欧米型の職業別の労働組合の導入を提案している。そしてこうした「労働」環境の改善は、完全に行為(Action)の領域からのアプローチになる。
宇野常寛『庭の話』p.338
「労働」環境改善のための「行為」。この辺りは酷く疎いので、労働組合の導入の提案というのが、どこに提案されてどんな手順で実装に向かうのかについて調べたうえで考えてみたい。
また、今一番働くということに対して私たちとは無関係に変化をもたらしそうなのはAIだろう。仕事を奪われることを恐れているという話は多い(ここでいう仕事は生計的な労働のことだ)けれど、むしろ労働が奪われるくらいの変化をもたらしてくれるのであれば、そういう局面を見てみたいという気持ちの方が大きいので、パソコンの前に座る労働は一旦全部無くなってしまってもいいと思う。そうなれば、物理的な事物を前にして労働する機会は格段に増える。それを操作するのか、編み上げるのか、移動させるのか分からないが、悪くないように思う。その上で、労働時間が減るようなことがあれば、相対的に制作のエンパワーメントにもなると思う。
こうして、労働(Labor)、制作(Work)、行為(Action)の関係は現代の情報技術を前提にしたものにアップデートされることになる。情報技術により民主化された制作(Work)の与える世界との接続(の実感)によって、情報技術によりインスタントに摂取されることによって生じる行為(Action)の中毒を抑制する。その制作(Work)への動機づけは、「弱い自立」によって解放された労働(Labor)によって与えられる。そして労働(Labor)に「弱い自立」をもたらすのは、情報技術でアップデートされ、「市民」でも「大衆」でもなく「人間」そのものを対象にした行為(Action)である。こうして、アーレントが『人間の条件』で示した人間の三大活動の相互関係はアップデートされるのだ。
そしてこの「人間の条件」がアップデートされたとき、プラットフォームの無効化される新しい交通空間=「庭」もまたはじめて機能するはずなのだ
宇野常寛『庭の話』p.342
評価や承認のゲームから離れるための「庭」、必要となる「庭の条件」。そして「庭」が機能するための「人間の条件」。現状重視するのは制作のエンパワーメントだが、今後仮にそういう方向に進んでいったとして、逆に制作が他の二つよりも相対的に肥大しすぎてもいけないのだろう。私自身の労働についても見直す必要があるし、なんなら求職中なので考えながら過ごしたい。
今回『庭の話』をみていく中で、二元論に対してテトラレンマというものについても所々書いたけれど、近代の超克とか二元論の超克というのは結構前から言われていることだと思う。21世紀にはいってからは、メイヤスーやハーマンなどがそれに類するような哲学を書いている。しかし、最近は哲学と社会の距離が離れすぎていると感じているところでもある。今哲学はどこで実装される機会を得ているのだろう。テトラレンマを浸透させる時の理想は、二元論を退けることなく浸透させることだ。しかし、対決させることなくして浸透することなどあるのだろうか、という気にもなってくるから難儀な話だ。どこからアプローチするかというのが、多分一番難しい話なのではないだろうか。
『庭の話』では、「浪費の失敗から制作へ」「静脈的アプローチから動脈的アプローチ(制作)へ」「労働環境改善のための行為ののち、労働の中に制作を見つけて制作へ」など、いくつかのアプローチがなされている。
人によっては一番の起点である労働環境の改善周りについて、本記事ではあまり深掘りできなかった。(それは単に私が詳しくないから)一方で、もし今の労働環境がぼちぼち良くて、制作の方へ興味を向ける時間はあるけれど、趣味的に触れているものもないし、どうやって浪費に失敗できるのだろうと思っている人には、リバースエンジニアリング的な観点は支えにならないだろうか。私たちの身の回りには制作の痕跡がこれでもかというぐらいに溢れているのだから。
【引用部分のページ数はリンク先の本の形式(単行本や文庫本)でのページ数になっています。また、電子書籍のものは本におけるページ数がわからないので載せておりません。】
要約
第1章 プラットフォームから「庭」へ
第一章では、SNSを起点にプラットフォームによる戦争や選挙における動員のされ方が探られる。そして、そこで行われているanywhereな人々(どこでも生きていけるごく少数のクリエイティブクラス)とsomewhereな人々(どこかでしか生きられない大多数のローカルな一員)による二重のゲーム、相互評価のゲームについて掘り下げられ、今やプラットフォームが世論形成を行える力を持っていることが語られる。
そして、somewhereな人々はanywhereな人々と違い、素手で世界に触れている感覚を得られないがために、情報技術(SNS)によって低コストで得られてしまう承認の快楽に溺れていることが示される。
そこには、当時web2.0が理想として掲げたような多様性は生まれておらず、むしろ承認の快楽を求めてシェアされる話題は画一化してゆき、実空間さえもハッシュタグ的な空間と化して、予定調和な事物にしか出会えなくなっているという。
かつて学生反乱の時代に吉本隆明は、共産主義革命という共同幻想からの自立のために、対幻想に依拠するという処方箋を示したが、むしろ人々は対幻想だけに依拠してしまうことによって共同幻想に埋没する卑しさを正当化してしまい、そのプロジェクトは敢えなく失敗した。
私たちがこのゲームから離脱するために、人間間における相互承認という関係の絶対性を相対化するために、つまり脱ゲーム的身体の回復を目指すため、リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子論を引いて真木悠介=見田宗介が示した、体にとっての利他によってもたらされる遺伝子にとって利己の快楽があるという「花」的コミュニケーションが今の我々から忘れられていることが語られる。「花」的コミュニケーション、それが示すのは、自己保存=承認の快楽だけではなく、自己解体にも快楽があり、そして自己解体を経由した自己保存によって初めて得られる快楽があるということだ。
そこで著者は、人間間コミュニケーションにおける相互評価のゲームで得られてしまう承認の快楽を相対化するために、人間外の事物とのコミュニケーションを回復する場所、「庭」をキーワードとする。庭には人間外の様々な事物が存在する。その事物に触れることで、本来の多様な身体を取り戻していく、という方向性が示される。
キーワード的なものを太字にしておりどれも重要なのだが、最後まで読んだ上で思っていた以上に重要だと思ったのは「素手で世界に触れている感覚」、これではないかと思う。
第2章 「動いている庭」と多自然ガーデニング
第二章では、クレマンの『動いている庭』において、彼が雑草の代名詞であるバイカルハナウドを作庭の中心においたことが語られる。そして彼は『第三風景』において、森林でもなければ農地でもない場所=荒れ地=第三風景は、畑や放牧地よりもむしろ多様性が高いと言う。その上で、第三風景には多様性があるが、人が手を入れなければ一つの生態系に支配され、多様性は無くなるのだという。また、エマ・マリスは『「自然」という幻想』において、手付かずの自然への崇拝をウィルダネス(野生)崇拝として批判していることが示される。
これは現実の庭の話だが、相互承認を求めるが故に話題が画一化していったように、プラットフォームにおいても放置すれば画一化してしまうのだ。だからこそ、特定の生物が支配的に繁殖することで他の生物を圧倒する状態を排除する必要があり、プラットフォームにおけるその特定の生物とは人間間の相互評価のゲームに他ならない、と言う。
第3章 庭の条件
第三章からは、私たちが作るべき「庭」の条件が探られていく。
ユクスキュルの環世界(生物ごとの異なる世界)を引いて、人間の身体は人間外の事物に触れることでその機能をより多様に発揮し、擬似的に「変身」するのだと述べる。ここでいう変身とはこれまでの話で出てきていた、自己解体と同義だろう。ここから著者は庭の条件を示す。
- 人間外の事物とコミュニケーションを取る場所である
そして書店を例に、大手書店の売れ筋ランキングや個人書店のレコメンドよりも、ブックオフの100円ワゴンの雑多さの方が多様性があると語った上で、事故的に偶然の出会いがもたらされることを可能にするために、庭の条件を示す。
- 人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を構築していること
とはいえ、生態系とはそもそも開かれてしまうものでもあるとも留意する。
そして、プラットフォームが相互評価のゲームとして攻略できるものになってしまっている点を改めて述べた上で、庭の条件を示す。
- 関与はできるが、支配はできないこと
クレマンの動いている庭は現状の三つの条件を満たしている。この後もどんどん庭の条件は深掘りされていく。
第4章 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ
第四章では、前章で書かれたような「庭」に最も近い実験的な試みとして、東京都の小金井にある就労継続支援B型事務所「ムジナの庭」が紹介される。この施設では「構成員である個々人が自分の独自性を保ちながら、しかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされていると言うことがない」というコレクティフな状態を保つことが重視される。
そして、ムジナの庭の主宰である鞍田愛希子の夫で哲学者である鞍田崇がコレクティフという言葉を「たまたま」と訳していることに著者は注目しつつ、ムジナの庭の試みを、偶然性を失いつつある人間間のコミュニケーションに、人間外の事物とのコミュニケーションを混ぜ込むことで、それを回復する試みであると見る。そして、人間が一度人間外の事物を経由することで他の人間に触れること、つまり人間間コミュニケーションだけで完結するのではないという点を重要視する。ここでは、「たまたま」人間間コミュニケーションが発生しているのだ、と。
第5章 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ
では、コレクティフな状態を生み、維持するために必要な事物の条件とは何か。キーワードはインティマシー(いとおしさ)である。
柳宗悦の提唱する「用の美」を近代化で失われた生の実感をもたらすことに位置付け、それをインティマシーと表現した鞍田の議論を引きつつ、著者は、ここで問われているのは事物を通じて人間と世界とのつながりを実感できることだという。第一章において、somewhereな人々は世界に素手で触れている実感がなく、それによって相互評価のゲームに浸っていると語られていたことを思い出したい。
工業製品は作り手を不可視にする、一方民藝では職人の手仕事によって作られ、そこには一人の人と世界との関わりの痕跡が残っているという。民藝を手にした人はそれを用いることで、職人がそれを作り上げた時と同じように世界に触れることができる。そしていつしかそれが手に馴染んできた時、その道具にインティマシーを感じるのだ、と。
前章で「ムジナの庭」の活動については省略してしまったが、そこで行われていたのは手仕事、つまり事物を「つくる」ということをしていたのである。
ここで議論はくるっと周り、事物を用いる側から事物を作る側へとシフトする。
ここで出てくるのはパターンランゲージの研究者、井庭崇である。パターンランゲージとはクリストファー・アレグザンダーによる、建築と都市計画の理論で、パターンの組み合わせで建築物や都市を作っていくというものだ。
井庭は今日の社会を情報社会から創造社会の転換点であると考える。創造社会とは、事物を制作することによる自己実現が支配的になる社会のことを指している。しかし、ここまで見てきたように、web2.0が理想とした多様な創造社会はSNSなどの相互評価ゲームによって画一化したのだった。しかし、井庭はそれも織り込み済みである、と著者は言う。
井庭は柳宗悦の「無心の美」という概念に注目する。無心とは意図や作為のない状態を指し、彼はこの「無心の美」をアレグザンダーの「無名の質」と同じものとみなす。無名の質とは作り手の意図ではなく、単にあるプロセスから生成される表現の質のことを指す。そして鞍田の議論を援用しつつ、「無心の美」=「無名の質」はインティマシーに支えられているという。
それは、暮らすこと=人間の特に意図されない、当たり前の営みの中に発生するインティマシー。それは世界に自分が確かに関与するのだという手触りを中核とした価値なのだと著者は言う。
そして、パターンランゲージという知恵をシェアすることでインティマシーを発揮する事物が制作できるのだとする。
ここで問題になるのは欲望である。多くの人は実のところ創造社会を望まない。食べることが好きな人でも手間を惜しんで自分では料理を作らないように。であれば問題は、そうした人々を人間外の事物とのコミュニケーションへと駆り立てるための動機づけである、と。
第6章 「浪費」から「制作」へ
第六章では國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を取り上げつつ、制作へと向かうための動機づけが探られる。
『暇と退屈の倫理学』ではまず、暇と退屈を次のように定義する。「暇」とは客観的な条件であり、「することのない」状態のことだ。対して「退屈」は主観的な条件であり、何かを「したいのにできない」状態のことだ。という。
そして、消費社会において私たちが「退屈」になってしまうのは、資本主義において、広告などによって事物に対する欲望を植え付けられるが、この欲望は観念的なものであり、いくら事物を消費しても満足しないからだとした上で、解決策として消費ではなく浪費を提案する。浪費によって、必要以上のものを受け取る時、人間は満足するのだ、と。
続けて、浪費へ回帰するために、「動物になる」ことを提唱する。人間は高い認知能力によって擬似的に環世界を移動するが、簡単に別の環世界に移動してしまうから退屈するのだという。したがって、環世界にしっかり留まるために「動物になる」。動物になるとは、事物そのものを受け止める訓練であり、この時の事物は観念ではない。
この「動物になる」ことを著者は「変身」に置き換えることで、これまでの議論と接続する。しかし、『暇と退屈の倫理学』で仮想敵にされていたのは消費社会であるが、今は情報社会であることを相違点として指摘する。
國分はドゥルーズの「不法侵入」=(人が不意に遭遇するショック)という概念を用いて、環世界の移動はこの不法侵入に対して訓練できていない、つまり事物そのものを受け止めきれないことで起こるという。
著者はここで、國分の「動物になる」ということが、制作する主体を想定していないと指摘する。情報社会において、人々は自己と世界のつながりをどう確認するかという問題を抱えており、プラットフォーム上で発信すること、承認の快楽の虜になっている。だからこそ、「制作」の快楽(人間外の事物とのコミュニケーション)により、承認の快楽を相対化することを目論むのだ、という。
そしてここで庭の条件が提示される。
- 「不法侵入」の可能性を担保し続ける場所でなくてはならない
これはここまでの3つの条件を含んだものでもある。「不法侵入」がなければ、事物を受け止める訓練をしても、そもそもその機会が訪れない、ということだろう。
ここで動機づけの問題に戻る。どうすれば動機づけることができるのか、先んじて言えばそれは「浪費の失敗」である。下記は著者がする例え話だ。(が、明らかに本人の話だ)
その人は特撮番組グッズを集めていた、すでにあらゆるものを集め切っていて、今は新発売されるものがないかと日々祈っている。けれどなかなか出ない。そこで彼は考える、自分の事務所で理想のものを発売できないか、と。
こうした時、その事物に対して強い欲望が生じている。それは消費的な事物の観念ではなく、浪費的な事物そのものだ。人はある事物を強く追求することで、その理想形が生じる。重要なのは満足していないこと、つまり事物の「浪費」に失敗していることだ。これが「制作」の出発点になる。理想形が生じる、しかしそれはまだ世界に存在していない、ならば自分で制作するしかないのだ、と。
では、どうすれば消費に陥らず、浪費に失敗できるのか。
不法侵入、つまり予期せぬ事物との出会いによって「動物になる」=「変身」し、その事物の環世界へ擬似的に移動する。そしてその環世界に継続して止まっていられるならば、欲望そのものも変化するために、人間は満足せず、浪費に失敗する。
しかし、しばしば人は満足してしまう。では、変身の継続条件とは何かが問われる。
インティマシーを発揮する事物とは不可逆な変身をもたらす。こうした変身の機会を得る確率を上げる環境を整えることが、不法侵入の可能性を担保した庭を作ることに他ならないとした上で、この事物からの不可逆な、一方的なコミュニケーションの成立条件も探っていく。
第7章 すでに回復されている「中動態の世界」
第七章では、同じく國分功一郎の著書である『中動態の世界』が扱われる。
スピノザを引きつつ國分は、自由とは「自己の本性に基づいて行為する」ことだ、と提示する。ここで提示される自由は、法という概念に代表される「審判の言葉」による不自由さから解放されるためのものとして提示されているのだが、著者は、SNSにおける誹謗中傷の責任の不在を例に出しながら、國分が意図した形とは違う形で我々が中動態の世界にすでに生きてしまっている、という。そしてそこではむしろ責任から逃避を促す場所になっており、自由だからこそ人間の悪を謳歌しているという。プラットフォームのユーザーは中動態の世界だからこそ発生する自由を生きているのだ、と。
それを加味した上で、「庭」はこの中動態の世界が機能しなくなる、一時停止される場所でなくてはいけない、という。
前述の通り、事物と遭遇し、インティマシーを感じる。そこで事物の理想形が生じ、理想形との落差に傷つく。この「傷」が制作へと動機づける。重要なのはこの「傷」が回復できないことである。浪費に満足するとは、この「傷」が回復された状態のことである。人は自由な状態にあると、この「傷」を回復してしまう、自己保存してしまう。であれば、中動態の世界を一時停止し、能動態/受動態で記述される不自由な世界において、事物が一方的に人間へコミュニケーションをとるために、人間はそこで一時的に、完全な受動的な存在にならないといけないと述べる。
その受動性により、回復不可能な傷を与えられ、制作へと動機づけられる。そして、制作者になるとき、そこには言葉本来の意味での自己責任が発生するのだ。
しかし、相互承認の起こる場において、その傷はすぐに回復されてしまう(なかったことにされてしまう)。変身による自己解体は負担が大きいため、低コストで得られる承認という自己保存へとただ向かってしまう。であるならば、
- 「庭」には共同体があってはいけないのだ。
先んじて留意しておく必要があるのは、とはいえ共同体というのはできてしまう、ということである。
第8章 「家」から「庭」へ
第八章では、資本主義批判として流行している共同体回帰に待ったを掛ける。というのも、共同体回帰の言説はSNSプラットフォームを批判するが、プラットフォームと共同体はむしろ共犯関係にあるからだという。
そして、共同体回帰の言説によく現れる贈与経済についても、『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」というエピソードを引きながら、共同体内の人間関係に依存した贈与経済は、現金を持っていれば誰でもものを買える資本主義経済よりも弱者に優しくないという。
共同体は内部と外部を隔てることによって成立し、そこで隔てているものとは文脈の共有である。Qアノンや歴史修正主義者たちには、ある事実に対して訂正するという快楽が発生している。こうした訂正は共同体を維持するための文脈設定であり、それが正しいか正しくないかは問われない、寧ろ正しくないからこそ、陰謀論的であるからこそ支持されているという。そしてカルト的な動員が行われる。
SNSのプラットフォームにおける共同体は、日々の話題ごとに個々人が「敵(=よくある二者択一に対して自分がどちらの立場を取るのかという表明)」を設定することで発生し、話題が変われば解体されるということが高速に行われている。人々は目の前に発生する共同性に強く惹かれ、承認の快楽を手放せなくなっていく。人間は共同体の内部に閉じ込めれていく。
そこで提示されるのが「孤独」だ。
第9章 孤独について
孤独、それは今不当に貶められている、と言う。国家は孤独を問題視し、福祉政策からそれを解消すべき対象として挙げているのだ。しかし、孤独に世界に佇むことで初めて得られる快楽も存在するのである。
そして、共食や縁食などの人と一緒に食事をすることよりも孤食を評価する文脈を引きつつ、純粋に事物と向き合うために、人間は一時的に孤独になること「も」必要だと述べる。
孤独に事物と対峙するとき、そこには自己責任の世界がある。
この世界における快楽を覚えた時、つまり「ひとりあそび」を覚えた時、人間は孤独であるからこそ開く扉を通じて世界に関与できるのだ。ここで「ひとりあそび」のコツとして、「目的」を持たないことが挙げられる。
そこで庭の条件として、
- 人間を孤独にすること
これが最も重要な庭の条件である、と。
第10章 プラットフォームから(コモンズではなく)庭へ
十章では、プラットフォームの支配に対し、コモンズの必要性を唱える人が多いと述べた上で、コモンズの悲劇と呼ばれるコモンズの失敗例をあげ、インターネットのプラットフォームがコモンズの進化系であることを示される。
そして、孤独になれる場所の例として、高円寺にある小杉湯や、喫茶ランドリーを例に挙げながら、デジタルファブリケーション研究者である田中浩也の取り組みに注目し、都市の静脈、つまり生活の中でしなければいけないことに公共性を加えるような試みを取り上げる。
この静脈的なアプローチにおいては、共同体の一員になることにストレスを感じる人や、弱い立場に置かれがちな(よそ者やコミュニケーションスキルの低い)人も、否応なく受動的に事物に触れることになる。そうした状況に置かれたとき、制作に、つまり動脈的なアプローチに向かうということが示される。
そして、ここまでで挙げられてきたいくつかの事例が庭の条件を満たしているものなのかを改めて確認しつつも、庭の条件は一つの場所で全て満たされる必要はないと述べる。
ちなみに、この章に至るまでにおいて、挙げられてきた庭の条件としては主に以下になる。
- 人間外の事物同士がコミュニケーションを取る
- 外部に開かれた生態系を構築している
- 関与できるが、完全に支配することができない
- 不法侵入の可能性を担保し続ける場所でなくてはいけない
- 人間が一旦、完全に受動的な存在になる時間が生まれる場所でなくてはならない
- 共同体があってはならない(とはいえ共同体はできてしまうものである)
- 人間を孤独にすること
これらの条件がそれぞれ独立した条件ではなく、密接に結びついていることは言うまでもないだろう。
庭の条件を全て満たす社会的な大状況は存在している、と著者は言う。しかし、多くの人々はそれを望まない。なぜなら、一般的にその状況は「戦争」と呼ばれているからだ、と。
第11章 戦争と一人の女、疫病と一人の男
第十一章で扱われるの坂口安吾の小説『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』である。その小説の中で女は、世界が焼けるさまに美しさを感じている。戦争が一方的に自分を襲う。女には、他の誰かと承認を交換することによる充足はない。世界が自己とは無関係に変化してしまうことに、女はただ魅せられている。
「庭」の条件を総合的に満たす「戦争」という状況について考えることで、自己は何も「する」ことはなく、他の誰かから何者か「である」ことを認められることもなくただ存在しているだけで、世界の変化に呑み込まれていくことに快楽を見出す。この欲望こそが、今日のプラットフォームにおいて忘却されている欲望だ、と。
その欲望は、anywhereな人々による「する」ことへの評価とsomewhereな人々による「である」ことへの承認獲得のゲームの外部にある。
そこから、「庭」の条件として、下記を見出す。
- 「する」ことでも「である」ことでもなく、自己と無関係に世界が変化すること
そして、戦争の力を借りずに、平時に、日常の暮らしの中にそれをインストールすることが最大の鍵になる、と言う。しかし、社会のあちこちに「庭」的な場所を設けるだけでは、プラットフォームに対抗することはできない、ということを著者は認める。
そして次章以降では、そこを訪れる人間について、つまり「庭」が正しく機能するための人間の条件が探られていく。
第12章 弱い自立
第十二章ではまず、個人のアイデンティティの問題を承認(=「である」こと)ではなく評価(=「する」こと)に置くと仮定し、最終的に辿り着くべきところが「する」ことを市場の評価から切り離すこととした上で、弱く自立するためにある程度有効なものとし、副業や複業という「働く」モデルを提示する。
ここでもやはり、重要なのは個人が世界に関与しうるという「手触り」だと述べられている。
そして、コンサルタントの柴沼俊一の「アグリゲーター」という概念や文化人類学者の小川さやかの議論を引きつつ、両者の議論に出てくる働き方、そこにはある種弱い自立が成立していることを示す。
弱い自立によってまずは「評価」のハードルを下げてみる。それが「である」ことでも「する」ことでもない道への入り口になる。
その上で、弱い自立を共同体からの承認からも、社会からの評価にも依存しないものにしていく可能性を考えていく。
第13章 「消費」から「制作」へ
現状、弱い自立は思考実験の中で想定された不完全なモデルにすぎないという。それはプラットフォームの与えるものが「である」ことや「する」ことに先鋭化しており、その快楽を相対化する必要があるからだ、とする。その上で、再び現れるのが「制作」である。
「庭」的な場所における事物の「制作」。そこでは承認からも評価からも切断しうる自立の可能性を秘めているのだ。その上で制作を通じて公共性に接続する。自己が「何者かになる」こともないまま、世界に触れている手触りを得ることを実感する。それらは制作によって始まる。「戦争」という破壊の快楽に最も肉薄できるのは、「制作」の快楽なのだ、と。
働くことを市場の「評価」から完全に切断することは不可能だが、「働く」こと、つまり市場の評価を目的とした労働の一要素として「制作」がある、と著者は言う。
そして、労働と制作の関係を再設定するため、次章ではアーレントの『人間の条件』へと向かっていく。
第14章 「庭の条件」から「人間の条件」へ
まず、アーレントの『人間の条件』から、人間の基本的な活動が三つに分類が提示される。
- 労働(labor)- 生物学的なプロセスとしての個人の生存と直接関連している活動
- 制作(work)- 人間が事物を作り出し、世界に恒久的な変化をもたらす活動
- 行為(action)- 人間が他者と交流し、共同の世界を形成する社会的、政治的な活動
アーレントが重視したのは「行為」だったが、今日のプラットフォームにおいて人々は「行為」による自由と自己表現、そして世界への関与の快楽を貪っており、もしアーレントが存命であればこの時代を「行為」の「制作」化と見て嘆いただろう、と言う。その上で考えるべきは「制作」の「行為」化であると述べる。
そして、githubなどのオープンソースは制作の行為化が実現されているとしつつも、それを享受しているのがanywhereな人々に限られていると言う。とはいえ、正確には、somewhereな人々にもそれは開かれているが、享受できることに気づいておらず、挑戦できないのだという。
そこで、制作を技術的にだけではなく社会的に民主化して、somewhereな人々に拡大し、この分断を解消する必要があるという。
somewhereな人々が制作を自覚できない理由として、承認の快楽に負けていることと、制作が労働に飲み込まれていること、が挙げられる。つまり、「労働」と「行為」に対して「制作」が相対的に弱いのだ。
「労働」は市場からの評価に、「行為」は共同体からの承認に結びついている。だからこそ、その外部で制作を行う。自分が欲しいものを自分で作るしかないという思いを実現した時に、制作の快楽を知るのだ。
しかし、制作は人間を支えるが、制作は、その制作した事物が市場で売れる(つまり労働化する)か、という風に転換されやすい。それよって、制作における事物を作ることによって世界に関与する手触りを感じづらい。制作をしても、それが労働あるいは行為のどちらかに接近しないと実感が得られにくい。
提案されるのは、労働、行為との関係を再設定することで制作をエンパワーメントすることだ。そこで注目されるのが、制作へ人間を動機づける回路として労働を用いることだ。労働、つまり生計の維持に特化した活動の中で制作の快楽を覚えていくという可能性だ。
その条件は二つあり、一つ目はその労働をかつての職人の仕事のように「自分の仕事」にすること。もう一つは、再分配と「暇」である。日本の労働者のアイデンティティが、職場の承認に依存しすぎており、やりがい搾取などにつながっているため、労働環境改善のための労働組合導入を提案する阿部真大の言説を引きつつ、「労働」環境を政治的「行為」によって整えていくことを示す。
こうして、労働、制作、行為の関係を、つまり人間の条件がアップデートされた時に初めて、プラットフォームを無効化するための「庭」もまた機能するはずなのだ、と締められる。